■ 野鳥標識調査について■

野鳥の足に標識として足輪を付け、その個体の移動範囲をモニターする、Banding調査と呼ばれる方法がある。最近、野鳥撮影愛好家の間で、このBanding調査の是非を巡ってMovementが起きている。

詳しくは、カワセミ日記の中島さんのHPと、プロの野鳥写真家、和田剛一さんのHPをご参照ください。


問題点とされている項目を簡単に列挙すると、

1.小鳥にとっては小さな足輪でも生命を脅かす存在であることが考えられる。
2.かすみ網という捕獲方法が、野鳥にストレスを与える可能性が考えられる。
3.悪質なバンダー(むしろハンター?)がいるらしい。

まず、Banding調査そのものの是非については、メリットとデメリットが対立しているので、賛成とも反対とも私には言えません。
行うのであれば、もっと改善出来るはずだ、という意見には賛成です。
改善出来そうな点、

1.捕獲、標識のしかたを工夫する(負担を減らす、認識度を上げる)。
2.捕獲、標識の技術の向上。モラルの徹底。(研修の徹底、ルールの明文化など)。
3.免許の悪用の防止対策(チェック機関を設けるなど)。

これらの改善は、研究データの信頼性の向上、データ収集の効率化、研究に携わる人のモラルの向上など、研究機関にとってもメリットになる点です。
活動の中心になっている野鳥写真愛好家と、互いの利益を共有出来るはずなので、どちらにとっても悪い話ではないように思います。その点をふまえて要望していけば、実現への希望も見えてくるのではないかと考えています。
(野鳥写真愛好家と研究機関が争うという形ではなく)
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以下、雑文(Banding問題をきっかけに考えたこと)
昔から、どうももやもや感じてきた「違和感」の正体について考えてみました。
まず、研究の目的とは、なんでしょうか。
私は、「知りたい」の一言に尽きると思います。

例えば野鳥の研究であれば、野鳥の生態や行動をより深く理解したい、これが研究目的に相当する訳です。自然保護とか、野鳥の保護とかは、研究の目的ではないし、モチベーションである必要もないでしょう。
なぜなら、研究のモチベーションは、知的好奇心を満たしたいという点だからです。
ですから、野鳥の研究をする人たちというのは、野鳥の生態や行動に興味を持った人たちの集団であって、野鳥に愛情を持っているか、自然保護に熱心かどうかは無関係です。

では、野鳥の写真を撮る人たちは、どういった人たちでしょうか。
おそらく、野鳥に被写体としての魅力を感じる人たちの集団でしょう。
研究者と同様、野鳥を愛していることは、野鳥写真愛好家たる前提条件ではありません。
しかし、野鳥を愛していると公言する野鳥写真家も沢山います。
むしろ、野鳥を愛していないと公言する野鳥写真家を見たことはありません。

ところで、野鳥写真を撮ることは、大なり小なり、野鳥にストレスを与える行為です。なぜ、野鳥を愛していると公言する野鳥写真家が、一方では、野鳥にストレスを与える行為をするのでしょうか。
Banding調査の是非を議論するのと同様の基準で、野鳥写真撮影の是非を議論することは可能でしょうか?

Banding調査には、次のような社会的意義が考えられます。

1.野鳥の生態をより理解出来る可能性がある。(研究対象として興味深い)
2.野鳥や野鳥に影響を受ける種の保存を行う上で有用な情報が得られる可能性がある。
3.野鳥を介した人、動物への感染症に対する対策を立てる上で有用な情報が得られる可能性がある。

一方、野鳥にストレスを与えないような方法論が確立していないというデメリットが、上記の社会的なメリットに対抗しています。

野鳥写真撮影の場合はどうでしょう。社会的意義としては、図鑑や学術資料写真といった用途があります。プロの写真家の社会的ニーズは理解出来ます。
では、アマチュア野鳥写真家はどうでしょうか。社会的ニーズは、すぐには思い浮かびません。

好奇心を満たすために、野鳥にストレスを与える方法で研究をすることはけしからん、と言う理屈と、
写真を撮りたいという欲求を満たすために
野鳥にストレスを与える方法で写真を撮ってはいけない、と言う理屈、
片方のみを肯定したり否定したり出来るものでしょうか?
その上、後者には、社会的ニーズが存在しないように見えます。

野鳥を愛すると公言するアマチュア野鳥写真家に誰でも出来る、野鳥へのいたわりとはなんでしょうか?それは、野鳥写真撮影をやめることではないでしょうか?この考えは、突飛でしょうか。野鳥のストレスを少しでも軽減するという目的から見ると、一見、非常に合理的であるように思えます。
図鑑写真などを撮るプロは、バンダーと同様免許制にし、
それ以外のアマチュア写真家は、野鳥写真を撮らない、
これをするだけで、日本の野鳥を取り巻く問題が、
かなり改善出来るような気がします。

バンディングの問題を改善するのには、多少月日が必要でしょう。
しかし、私を含めて野鳥の写真を撮る人にとって、
写真を撮るのをやめる、という決断は、
今日にでも実行可能です。
この二つの問題、両方同時に取り組んでもよいわけです。
このアイディア、どう受け止めればよいのでしょうか?

ここでは、その是非については議論しません。ここで問題にしたいのは、この提案を、野鳥写真愛好家がどういう気持ちで受け止めるか、どういう心理的反応が起こるか、と言う点です。

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さて、考えをもう少し推し進めます。
研究も写真撮影も、欲求です。食欲や性欲ほど生物学的な欲求ではなく、人間独特の文化的な欲求でしょう。欲求そのものには、善も悪もないと私は考えます。
性欲は悪だという道徳観、宗教観がありますが、これは、人間の価値観の押しつけだと私は思います。善や悪などを議論するには、まず、尺度が必要です。誰に、もしくは、何にとってそうなのか、と言う定義が必要です。例えば、「人間社会にとって」とか、「道徳的見地から」とか、「聖書によると」とか、そういう尺度をもうけて、初めて、善悪を定義出来るのです。様々な価値観が、そういった、「誰にとって、何にとって」を定義することで決まります。時として、この部分が省略されることが多いため、その意味するところが不透明になりがちです。例えば、「人間(社会)にとって」という定義は、当たり前すぎるためか、しばしば省略されます。

話を戻します。人間の持つ様々な欲求は、性質であって、善でも悪でもなく、そこに存在するものです。研究をしたいという欲求も、写真を撮りたいという欲求も、他人を教育したいという欲求も、それそのものは、否定されるべきではないでしょう。正確に言えば、社会的に折り合いが付く範囲内では、否定されるべきではない、と言うことだと思います。例えば性欲などは、ときどき社会的に問題を起こす原因になるので、ある道徳観、宗教観から「悪」と扱われる場合があります。しかし、性欲を否定することは、人間という生物を否定する事に繋がります。つまり、人間が持って生まれた欲求というのは、性質なので、悪とすることは、本来的には出来ないのです。

しかし、欲求をどう発散するか、これが問題です。人間は、本来利己的なものなので、放っておくと、目先の欲求に走ります。しかし、それでは社会を形成出来ません。社会を形成出来なければ、まともに生きていくことは不可能です。例えば、社会が存在しない世界で野鳥写真を撮りたいと思ったら、カメラやレンズ、フィルムなどを、自分で設計、開発し、製造しなくてはいけません。社会が存在すれば、誰か他人に作ってもらえます。社会があるかないかの違いは、生活水準、文化水準に桁違いな差となって現れてくるでしょう。

人間は、利己的で欲望の塊のようなものです。これを大きな前提として捉えます。しかし、人間は、知恵を使って、社会というものを形成します。その維持のために、道徳観や宗教を利用します。社会を取り囲む自然や環境などで、人間にとって有益なものは大事にし、そうでないものは排除します。その選別の基準は非常に自分勝手です。ゴキブリやシロアリを駆除する一方、絶滅危惧種の野鳥などは、餌付けまでして維持しようとします。その選別基準は、どう決まるのでしょうか?かわいそうだから、とか、感情移入出来るからでしょうか?それも、ある道徳観のもとでは正しいでしょう。しかし、私は、あくまで、人間(社会)にとって有益と思われるかどうか、だと思います。

自然に囲まれて癒されるのはなぜでしょうか。おそらく、それが人間にとって生きやすい、もしくは、快適な環境なのでしょう。例えば、大気汚染や水質汚染で健康を害する可能性があるので、綺麗な環境を好むように本能が設定されているのでしょう。また、様々な生き物、とりわけ生物学的メカニズムが人間に近い他のほ乳類や鳥類などの高等生物がいる環境は、すなわち人間にとっても住みやすく、また、食料が豊富にあることを意味する場合が多いのではないかと思います。

そのような環境を保護することは、すなわち永続的にその環境の持つソースを利用し続けることが出来るというメリットに繋がります。
保護というのは、その利益を永続させるための方法論です。もし人間が、神レベルの理解力と知識、知恵があれば、逆に積極的に自然界に介入して、あたかも、種なしブドウを作るような感覚で、人間にとって理想的な生態系を作りだしていたかも知れません。
残念ながら、人間はそこまで自然界を理解していません。そして、知恵のある人は、そのこと自体を心得ています。だから、介入せずに、維持しようとするのです。だから、「保護」は単なる方法論であり、ある種のシステムだと私は思うのです。それ自体が高尚だとか、えらいとか、そういったものではないと私は思います。そして、現状では、それがベストな方法でしょう。

自然保護というのは、多くの場合、目的として認識されているようです。「自然を保護するために」というフレーズをよく聞きます。しかし、私は、上で述べたように、自然保護とは、一つの方法論もしくは手段であり、目的ではないと思うのです。

釣りや魚取りが好きな人は、水辺の環境を守ろうと訴えます。釣り針や疑似餌で環境を汚染していることを考えると、あなた達が釣りをやめたらいいんじゃない?と思うわけですが、環境を守るために釣りをやめた、という釣り人の話は聞いたことがありません。結局、自然から得られる恵みをいつまでも絶やしたくない、という、ある意味"不純"な目的を達成するために、その手段として環境保護を訴えているように思います。

では、そんな"不純"な動機でいいのでしょうか?自然を守るためには、やっぱり「愛」が必要ではないでしょうか?

私は、必ずしも必要ではないと思います。自分のために、自然を守ろうというのでかまわないと思うわけです。人間は、他者の利益のためより、自分の利益のための方が、最大限の努力が出来ます。「愛」なんていう移ろいやすい動機で動く人より、自分の欲求のため、と理解して行動する人の方が、その行為の持続性に信頼が置けます。

なぜこのような事を書くかというと、私はべつに、鳥に愛情を感じる訳ではないからです。被写体として興味はありますし、その行動や多様性も興味深いと思います。どちらかというと、動物愛護の立場の人より、研究者に近い感覚だと思います。

野鳥写真愛好家のコミュニティの中を覗くと、なんだか、野鳥を愛しているという態度を取らないといけない空気を感じることがあります。カワセミを、カワちゃんと呼んでみたり、「かわいい」という言葉が頻出します。もちろん、そのことは決していけないことでなく、非難するつもりは毛頭ありません。私は飴を「飴ちゃん」とは呼びませんが、そういう言葉を使う関西の人たちには好感を覚えます。その程度の問題です。ただ、私にそのような感覚はないな、と思うだけです。同時に、周りの大人から何を求められているのかに敏感で、本音を殺してそれに応えようと振る舞う優等生タイプの子供が感じるであろう、心のジレンマのような感覚を覚えます。野鳥に愛情を感じるわけではないけど、被写体としては魅力的ですよね、と言えない雰囲気を感じるのでしょう。本当は、皆、被写体としての野鳥の魅力を理解しているはずなのにです。

そのようなコミュニティ内では、野鳥保護は、そのような感情の延長線上にあるように位置づけられていると感じます。単なる建前かも知れませんが。しかし、私は、野鳥の虐待を見ても、おそらくその人たち口にする、「かわいそう」という言葉には、しっくり来ないのです。野鳥に迷惑だ、とか、ストレスを感じるに違いない、とは思うのですが。かわいそう、と言うより、それはまずい、という感覚に近いかも知れません。

私にとって、人間に対して感じる感情と他の生き物に対して感じる感情は違います。他の生き物を擬人化するのではなく、そのものとして捉えることが多いからかもしれません。人間の価値観は人間にしか通用しない、彼らには彼らの世界がある、という区別、人間の価値観を出来る限り彼らに押しつけないという態度が、私なりの自然に対する敬意であり、謙虚さの示し方だと思っています。また、それが自然というものを、人間の先入観に囚われない形でより深く理解するのに必要な態度だと個人的に思っています。そのような私にとっては、かわいそうだから、という人間的な理屈より、利己的な自然保護と説明されたほうが、その大切さが理解出来ます。

なぜ野鳥を守らなければいけないのかについて、教育の場ではどういう答えが用意されているでしょうか?また、あなたが子供たちに、なぜそんなことをする必要があるの?と聞かれたら、その理由や重要性をどう理解させようとするでしょうか?このような場では、自然保護は目的として扱われているでしょうから、それは人間の幸福を追求するための手段であって、あくまで目的は、人類の利益の確保にある、という説明にはならないでしょう。

かわいいから?かわいそうだから?貴重だから?そういった形で理解させるためには、まず、人間でないものに対してもそのような感情移入をするように教え込む必要があります。動物をかわいがった生徒には、「心優しいね」と褒めるなど、そういう「すり込み」をするわけです。
それは、方法論としてそれほど間違っているとも思わないので、否定もしないですが、それをすることによって、自然保護の本質とか、重要性とか、切実さとか、システムとしてどう機能させるべきか、とか、そういった問題が見えてこない、議論がされないという弊害が生じる気がします。また、利己的な気持ちと他己的な気持ちが共存しなくてはいけないので、心に矛盾を抱える人が出てくるのではないかと思います。

思いこめる人は、そのような矛盾は感じないでしょうか、そう思いこめない人は、自然保護問題を難しいと感じてしまうかもしれません。なぜゴキブリは殺してもいいけど、野鳥はダメなのか、野鳥は殺すとかわいそうだからと言うのなら、なぜ鶏は食べていいのか、その基準は何か?納得出来ない子供もいるはずです。教育者は、どう説明すればよいのでしょうか?その答えは、人間にとって有益かどうか、という利己的な理由以外にない気がするのですが、それを認めると、今度は、自分勝手な気持ちに支配されず他の生き物に愛を振りまけ、という教育と折り合いが付かない。そのうち、自然保護とか言う人たちはウソつきだ、言ってることとやってることが矛盾している、と、不信感を募らせることになるかも知れません。教育者がうさんくさい、というのも、こういった本音と建て前を使い分ける方法論の副作用ではないかと思います。(だからこういった教育は間違っているのだ、と言いたいわけではありません。その効果は認めています。)

で、かわいそう、と思ってくれればいいけど、そのすり込みに失敗したケースでは、いくら、野鳥がかわいそうだからやめろ、と言っても、かわいそうと思わないんだから、やめないし、そういう人たちには、そういうメッセージは伝わらないのではないかと思います。道徳観が違えば、「鳥がかわいそう」という気持ちが理解出来ない人がいても不思議ではないのです。
ある宗教徒に、豚肉は食うな、と言われても、豚になんの特別な感情も思い入れもない我々には、その言葉の重要性、彼らの切実さ、それをしたときの彼らの胸の内が理解出来ないのと同じです。道徳観や宗教観がからむと、全ての人の問題に出来ないという問題が生じるのではないかと思うのです。価値観の違いという壁(見方や状況によってはバカの壁と呼ばれる?)が邪魔をするのです。全ての人に共通するのは、利己的な欲求を持つという人間の(動物としての?)性質だけです。

私は、生態系の保護は、生き物を愛する、愛さないにかかわらず、人間の生存に必須である自然界からの恵みを得続けたいと願う全ての人の問題だと考えます。だから、野鳥が好きでなくても、自分のことが好きであれば、目先の欲望にとらわれず、賢く生きるべきなのです。
好奇心や何らかの欲求を満たす行為をするにしても、そのために自然界のバランスを崩すような行為をすることは「愚か」だと思うのです。この点に、注意深くなるべきだと思います。

その意味で、バンディング調査は改善の余地もあるし、その是非を議論する余地もあると思うのです。鳥がかわいそうかどうか以前の問題として。

8/30, 2005

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おわりに

長々とした文章にお付き合いいただきありがとうございました。

様々な誤解を受けやすい性質の文章だと思われるので、公開をためらったのですが、他にこういった考え方をはっきりと打ち出している所がなかったことと、できるだけ立場を越えてニュートラルに考えたかったということで、そういう書き方になりました。
「なぜそれがまずいのか?」を伝えるのに、「だってそうじゃない」とか、「普通はこう感じるでしょ?」という、伝えたい相手と共有していない常識や感覚をもって説得しようとしても、なかなか理解されないのではないか、と感じていたこともあり、その違いについて触れる都合上、特定の人たちを引き合いに出しました。
自分と違う、とは言ってますが、だから認めない、おかしい、と言いたいのではありません。非難や揶揄が目的ではないことをご理解ください。
いちいち「そういう事項にも例外はあるけど」とか、そういう断りを入れていると、文章が読みづらくなるので、そういうのは省いています。そういう事情も考慮してください。

それでも誤解が生じるようであれば、消すかも知れません。

 

 

 

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